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ジャマイカのコーヒー産業がこのように急速に発展したのは、ハイチ革命の難民がジャマイカに流入したのが一因.難民の主人と奴隷がコーヒー生産と経験と専門技術をジャマイカに持ち込んだ。しかし"樹木を切り倒して焼き払う"耕作方法を幅広く採用したため、大規模な土地の侵食が起こった。特にブルーマウンテン地区は山の斜面にあり土質はきめが粗くそのうえ豪雨があるため侵食は急速に進んだ.(注)ハイチ=1492年コロンブスが来島してスペイン領となり1697年スペインがフランスに譲渡してフランス領となり1791年に奴隷の反乱がおこりその後黒人支配者による争乱を経て1804年に独立、1806年世界最初の黒人共和国となった。ハイチとはインディオの言葉で"山の多い土地"の意味。
土地の侵食に加え.労働力だった奴隷が奴隷解放を機に農園から脱走したためコーヒーの栽培はますます困難になり多数の農園主はコーヒー農園を放棄さざるを得なくなった。1部の農園主は土地を小農民に貸したり売ったりしたため20世紀の初めには農園の所有形態は著しく変化した。コーヒーは小農民の栽培する作物になってしまい多数のコーヒー農民は他の農産物の栽培に転向した。やがて、バナナが農産物として脚光を浴び、重要視されるにつれてコーヒーはほとんど注目されなくなった。
コーヒー産業の衰退は1920年代、30年代と続き、カナダの輸入商社が低品質を理由にジャマイカコーヒーの輸入を拒否した1943年そのどん底に落ち込んだ。ジャマイカコーヒー産業の崩壊には、いくつかの理由が挙げられる。その中にはハリケーン、貧弱な精製加工、土地の肥沃性の低下、不十分な手入れ、国内輸送の不備などがある。その上世界市場では中米、南米、アフリカ諸国との深刻な競争があった。1941年当時植民地政府の農業アドバイザーだった、A・J・ウェィクフィ-―ルドはコーヒー産業復興計画の作成を政府から要請された。
彼の勧告に基づきコーヒ産業を復興発展させるため1950年コーヒーインダストリーボードが創設された。法律でコーヒーインダストリーボードに広範囲な権限が付与された。
すなわち
(1) コーヒーの生産、買い上げ、販売、加工精製の規制
(2) コーヒー産業発展の促進
(3) コーヒー産業に携わる者の福祉増進
(4) 土地の取得及び譲渡
(5) 苗床、農園の開発、維持
(6) コーヒー産業の各段階全てを管理する規制の作成
ウェィクフィ-ルドの勧告後の30年間のコーヒー産業はほぼその勧告に沿って展開した。
コーヒー産業の回復には次の諸点が大切だった。
(1) 植民地政府の総額10万6,750ポンドの資金供与
(2) 1945年コーヒー担当官としてA。M。ブラットを任命、1951年後任としてR・I・モスを任命
(3) 1950年コーヒーインダストリーボード設立
(4) 苗木育成の為政府の苗床を設置.1946年から1959年までに682万本の苗木を配布.
(5) ジャマイカ農業組合により農民を協同組合に組織化
(6) コーヒーインダストリーボード及び協同組合に果肉除去工場を設立
(7) コーヒーインダストリーボードに中央格付精製工場建設。
ボードの努力でジャマイカコーヒーは以前のように世界市場で高い地位を回復した。この結果国内外の企業家が投資をするようになった。1970年代日本はジャマイカコーヒーの最大の顧客になった。そしてジャマイカコーヒーの需要が益々大きくなったため、日本企業がジャマイカのコーヒー産業に大きな資金を投資するようになった。
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